羽が乾ききるまでには、まだしばらく時間がかかる。窪 美澄 著『よるのふくらみ』

恋愛小説は、肌に合わない。

それは小説だけではなくて、映画やドラマにもいえること。わたしは、”恋愛もの”がきらいだ
けれど、いまから紹介するのは、窪美澄の『よるのふくらみ (新潮文庫)』。
そう、どこからどうみても、正真正銘の“恋愛小説”だ。

恋愛小説は、肌に合わない。

けれどこの作品には、恋をしてきらきら輝いているだけの女や男は出てこない。
愛というものにどこまでも狂い、異常に苦しんでいる人間ばかりが出てくる。

セックスがなければ夫婦ではないのか

幼なじみとして育ったみひろと圭、そして、圭の弟の裕太。
恋人同士となったみひろと圭は、結婚前からのセックスレスに悩んでいる。
いや、厳密にいうと、思い詰めてとんでもない行動に出るのは、みひろだ。

肩にのしかかってきたのだ。結婚をすれば、もれなくついてくる圭ちゃんの家族や親戚、まるでドラマのような嫁と姑の関係や、セックスの先にある妊娠や出産や子育てなんていうものが隠し持つ重さと鋭い輪郭が。

わたしが世の中の恋愛ものと呼ばれるものを片っ端から嫌う所以はここにある。

恋愛や結婚の間には、2人の間だけで完結する事柄もあれば、そうでないものも存在する

結婚をするということは、相手の家と結婚するということ。
舅や姑との関係性が必然的に浮き上がってくるということ。
複数に絡み合った人間関係が築かれていくということ。

それにともなう痛みや苦しみや面倒くささはあって然るべきで、
いまさらそんな事柄にとらわれて懊悩する登場人物たちが滑稽にみえてつらくなるのだ

だから、ただの恋愛小説は肌に合わない。

だけど、この作品だけは別だ。

自分に貪欲なみひろがすきだ

自分というものを捨てきれず、欲そのものに抗えず、
ついに踏み入れてはいけない領域に自棄になって飛び込んでいくみひろ。

わたしは、みひろがすきだ。
彼女が主人公でなければこの小説は途中で読むのをやめた

もっとひとは、とくに女性は、これまで虐げられてきた記憶を内に隠し持ったまま、
復讐をするように生きるべきだ。

いつ、どんなときも、なんの判断材料も根拠もないまま、弱い存在にされてきた。

これからはその前提に生きるべきではない。

梅雨が明けたばかりだというのに、アスファルトの道路の上で、あお向けになった蝉が絶え間ない鳴き声を上げながらぐるぐると回転していた。子どもが駄々をこねるようなその姿を見ていたら、後悔と涙が同時にじわじわとこみ上げてきた。

もがく姿が傍目には醜く映るかもしれない。

それでも、生きることは諦めの継続なんかではないと、強い言葉の羅列が教えてくれる。