ゆとりミュージシャンが昭和最高批評文学と出会う時。 小林秀雄 著『モオツァルト』

はじめに、という名の言い訳

 

こんにちは、のいです。

のい
私はこの記事を書きたくない!

なぜなら、私はこの記事で小林秀雄の悪口をちょっとだけ言うからです。そしてかのような人の悪口を言うことはリスキーだからです。

小林秀雄(1902-1983)といえば、昭和最高峰の批評家であり、日本の批評文学の礎を築いた方でもあります。

彼の作品にたくさん触れたわけではありませんが、少しだけ読んだ「モオツァルト」以外の文(「モオツァルト」に収録されている他作品)からは格式の高さと気品が感じられ、「そうか、こうやって日本の批評文学は築かれていったんだな」と感銘を受けました。つまり、彼の他の文には素直に感心しており、今回触れる気はありません。

これは私が「モオツァルト」のみについてけんけんがくがくと語る書評となります。

2018年、作曲家を語るときにしてはいけないこと(してはいけないと私が教えられたこと)

音楽家はあまり論文を書きません。音大の演奏科にいたら卒論の代わりになるのは卒業試験での演奏です。大学院でも私は修了資格をリサイタルで得ました。しかし博士課程に入ると、なかなかそうはいかなくなります。そこで何が起こるかというと、論文を一本も書いたことのないミュージシャンたちが何もわからずに右往左往するという事態です。それを防ぐために「論文の書き方クラス」というのが存在します。そこで私が毎回繰り返し言われたこと、それは

「作曲家を聖人化するな」

ということでした。どういうことかというと、私たちはみな音楽について書くとき、楽曲や作曲者を絶賛しがちなのです。具体的にいうと、「彼の作った美しいメロディーはまるで天国からやってきたかのようである」とか、「この世のものとは思えない神秘的な音楽」などなど、表現がついポエムになってしまうのです。クラスにはアメリカ人も留学生もいて国際色豊かでしたが、この傾向はみんな一緒でした。あまりにも私たちがポエムを書くため、クラスでは特定の単語(transcendent=超越した とか)の使用が禁止される程でした笑

そう、音楽について書くってムズカシイ。だって、演奏するときや聴いているときの感動はやっぱり何かを「transcendent、超越した」体験だと思うんです。言ってみれば。だから音楽について書くときにポエムになっちゃうのはある程度しかたない。

でもねでもね、それと同時に音楽って、作曲家や演奏者の技術の結晶でもあるわけです。作曲家が技法を駆使して作った「曲」という技術品を、演奏者がまた、コツコツと培った技術で表現するわけです。そこのプロセスを「この世を超越してる!Transcendent!」と表現することにはやっぱり違和感があるんです。作業するときに「あーー覚えられない!」「やばい、あと一週間しかない!」と発狂したり、TwitterやFacebookに気をとられながら練習してる時間や、練習室の隅っこで録音聴きながらモソモソとサンドイッチを食べたりするのは、全くもってTranscendentじゃないです。それは日常です。

そして音楽は、そういう日常の中から生まれてくるわけです。

そうやって考えると、「作曲家を聖人化するな!」という意見に私は納得がいきます。

「この世を超越した存在」「天才」「誰も得られない才能」と人を表現するのはつまり、その作曲家が踏んだプロセス(作曲技法を得るまでの経験、練習、もしくは時代、環境などなど)を無視しているとも取れるわけである、ということです。今回の書評にはそういう考えがベースにあると思って頂けると嬉しいです。

 

「天才」「純粋」モーツァルト

モーツァルトの肖像画

モーツァルトといえば、まずは「天才」というイメージが一番最初に出てくるように思います。彼の35年という短い生涯、伝えられる神童ぶり、明るいのに影のある音楽、手紙や伝聞から伝え聞く人格、修正跡がない楽譜などなど様々なエピソードが彼を「天才」たらしめ、小林の筆はそれを伝えるのに充分です。ちょっとここ読んでみてください。長めの引用ですが、小林がモーツァルトの肖像画について書いている場面です。

僕は、 その頃、モオツァルトの未完成の肖像画の写真を一枚持っていて、大事にしていた。 それは、巧みな絵ではないが、 美しい女の様な顔で、何か恐ろしく不幸な感情が現れている奇妙な絵であった。 モオツァルトは、 大きな眼を一杯に見開いて、少しうつ向きになっていた。人間は、人前で、こんな顔が出来るものではない。 彼は、画家が眼の前にいる事など、全く忘れて了っているに違いない。 二重瞼の大きな眼は何にも見ては いない。世界はとうに消えている。ある巨きな悩みがあり、彼の心は、それで一杯になっている。 眼も口も何 んの用もなさぬ。彼は一切を耳に賭けて待っている。耳は動物の耳の様に動いているかも知れぬ。 が、頭髪に隠れて見えぬ。ト短調 シンフォニイは、時々こんな顔をしなければならない人物から生れたものに間違いはない、 僕はそう信じた。

小林秀雄. モオツァルト・無常という事 (Kindle Locations 141-149).  . Kindle Edition.

 

小林が言っている肖像画とはこれのことだと思われます。

「モーツァルト」の画像検索結果

ヨーゼフ・ランゲ(モーツァルトの義兄に当たる人)作

私はここを読んで、正直ちょっと笑ってしまいました。

のい
小林先生、それは少しバイアスが過ぎていませんかね。

と思ってしまったからです。この絵を見たことは何回もあったけど、私はこの絵を見て「不幸そうだ」という印象を抱いたことは特にありませんでした。多分、私と同じ意見の方もいるものと思います。いや、いいんです、小林秀雄がこの絵についてそう思うのは!でも、その解釈は小林秀雄がモーツァルトを「薄幸な天才」だと認識している、という前提があるからこそ成り立つんじゃないかと思うんです。例えばモーツァルトがすごくハッピーな人だと信じている人がこの絵を見たら、「幸せそうに何かを見つめている」と解釈したって別におかしくないんじゃないかな。

天才の驚くべき作曲法?

そして、これは小林秀雄だけでなく、よく言われることですが、モーツァルトがものすごく筆の早い作曲家であった、ということについて小林がモーツァルトの手紙を引用して語っている場面です。

――構想は、宛も奔流の様に実に鮮やかに心のなかに姿を現します。然し、それが何処から来るのか、どうして現れるのか私には判らないし、私とてもこれに一指も触れることは出来ません。――

中略

―― いったん、こうして出来上って了うと、もう私は容易に忘れませぬ、 という事こそ神様が私に賜った最上の才能でしょう。だから、後で書く段になれば、脳髄という袋の中から、今申し上げた様にして蒐集したものを取り出して来るだけです。―― 周囲で何事が起ろうとも、私は構わず書けますし、また書き乍ら、鶏の話 家鴨の話、或はかれこれ人の噂などして興ずる事も出来ます。

小林秀雄. モオツァルト・無常という事 (Kindle Locations 174-177). . Kindle Edition.

小林はこの手紙について、「どんな音楽の天才もこのような驚くべき経験を語ったものはいない」とし、それをこのように子供らしく語ることに感嘆の意を示しています。

私が気になるのは、ここでモーツァルトが何を語ろうとしているか、ということです。これって本当にモーツァルトが自分の驚くべき才能を子供らしく無邪気に語っているところなんでしょうか。

現代のクラシック音楽家はほとんどやりませんが、モーツァルトが生きた時代は「即興演奏」がとても人気でした。ジャズにアドリブってありますよね。譜面にコードが書いてあって、それをベースに即興で弾くというやつです。似たようなことがクラシックでも行われていました。(コードが書いてあってそれをベースにして弾く、というところまで一緒です!時も場所も離れた場所で生まれた音楽ですが、ジャズとバロック〜クラシック音楽のアイディアは実は結構似てるんです)そして、モーツァルトは即興演奏の名手でした。というか、当時の作曲家たちは即興演奏が上手なことが必須スキルでした。モーツァルトの後輩に当たるベートーヴェンも即興演奏で有名になった作曲家の一人です。

即興演奏に必要なものは何か?ということを考えてみましょう。それは、膨大な量の音楽の脳内ストックです。瞬発的にコードを見てメロディを作曲して弾いていくわけですから、様々な場面に対応しうるパターンが脳内にストックされていなければ、できません。ジャズのミュージシャンと話して一つ「すごいな」と思うところは、彼らはとにもかくにも朝から晩までよくジャズを聴くということです。クラシックの音楽家が楽譜とレコーディング両方から情報を得ているのに対して、ジャズミュージシャンが得る情報は耳からの量が圧倒的です。(楽譜にそれほど情報量がないのです)

一度、ジャズピアニストに「どうしてそんな即興ができるの?」と聞いたら、

「とにかく聴きまくってたらそのパターンが脳内に染み付いて、いつのまにかそれが自然にアドリブにも出てくるようになった。だから言ってみれば元は全部パクリなんだけど、組み合わせその他諸々は自分で選んでいるから、そこでオリジナルになっていくんだ」

と教えてくれました。

さてモーツァルトに話を戻します。私は、この手紙の中で語られているのは即興演奏についてなんじゃないかと思うのです。モーツァルトは音楽家一家に生まれ、父親に英才教育を施されています。当時としては珍しく、子供の頃から各地に旅をしてその地特有の音楽に触れていたことも忘れてはいけません。彼の脳内には旅からの影響で他の人と少し違うパターンの音楽がストックされていたかもしれません。とにかく、モーツァルトが膨大な量の音楽を「経験」としてごく幼い頃から身につけていたことは間違いありません。そうやって考えてみると、ここに書かれていることはそれほどに不思議なことでしょうか。モーツァルトが生きた当時は録音がなかったので、残っているのは楽譜だけですから彼が楽譜に起こすまで、何度そのパターンを試していたかはわかりません。もし即興演奏でなんども試作した末の完成形を楽譜に実際に起こすということをこの手紙に書いているのだとしたら、「脳髄という袋の中から、今申し上げた様にして蒐集したものを取り出して来るだけです。」という表現は驚嘆するというよりは、割とナチュラルな作曲のプロセスに思えるのです。(モーツァルトが極めて具体的に「自分の才能は出来上がった音楽を忘れないこと」と言及しているのも大変興味深いです。モーツァルトは子供らしい無縫の天才なわけじゃなくて、ちゃんと自分が何に優れているのか把握しているのです)

モーツァルトが脳内にパターンをストックしていた証拠に、彼の音楽には全然別の曲でも、「ん?これあの曲にも出てきたな」という似たパッセージが現れることがよくあります。気になる方はとりあえずyoutubeでK.485 ロンドと K.136 ディヴェルティメントを聴いて、出だしを比べてみてください。

「世間の愚劣に振り回された不幸な作曲家」への反論

モオツァルトの作品の 殆どすべてのものは、世間の愚劣な偶然な或は不正な要求に応じ、あわただしい心労のうちに 成ったものだという事である。制作とは、その場その場の取引であり、予め一定の目的を定め、 計画を案じ、一つの 作品について熟慮 専念するという様な時間は、彼の生涯には絶えて無かったのである。 而も、彼は、そういう事について一片の不平らしい言葉も遺してはいない。

小林秀雄. モオツァルト・無常という事 (Kindle Locations 886-890). . Kindle Edition.

ここに関しては、坂口安吾が「教祖の文学 ー小林秀雄論ー」(堕落論に収録)で書いていたことが私の考えたことと一緒だったので引用しておきます。

それはモオツアルトには限らない。チエホフの戯曲も不正な要求に応じて数日にして作られ、近松の戯曲もそうだ。ドストエフスキーも借金に追われて馬車馬のごとく書きまくり、読者の嗜好に応じてスタヴロオギンの歩き道まで変えて行くという己れを捨てた凝り方だ。

批評の限界

ここまで、小林秀雄の「モオツァルト」について、だいぶチクチクと意地悪に語ってきました。しかしこれを読んだことで批評の限界というのも少し見えたようにも思います。「モオツァルト」が発表されたのは1961年。戦後十六年だった日本に、どれほどモーツァルトの情報があったというのでしょうか。特に即興演奏についての下りは、当時と今ではわかっている情報量が全く違うはずです。今でこそ、実際に当時を再現した即興演奏を行う演奏家も増えてきましたが、当時はそれもなかった、少なくとも日本人がそれにアクセスする機会はほとんどなかったはずです。

つまり、小林秀雄は極めて限定された情報量の中でモーツァルトについて語らなくてはいけなかったのです。以前私が「モオツァルト」の良さがいまいちわからない、という事を書いた際に、

「批評は時事性が強いものだ」

と言われてハッとしたことがあります。そう、今私から見るモーツァルトと、小林秀雄が見たモーツァルトは違って当たり前なのです。情報量も価値観も違うのですから。

つまり、同じ人・作品でも時代が変わればその人・作品の批評も時代に合わせて変わっていくという事になります。

この移ろいやすさが批評文学の魅力であり弱点ではないでしょうか。

「批評家のいう事なんて気にするな。これまで批評家の銅像が立った事なんてないだろう。」by シベリウス(作曲家)

という言葉もありますが、これも批評文学の変化しやすさの一端を表しているように私は思います。(ちなみに小林秀雄の銅像も見つけられませんでした。ありそうなのに〜。知っている方いらしたら、教えてください!)

最後に、なぜこの書評を書いたのか再びの言い訳

長い書評になりました。かなりオタッキーな内容になりましたが、読んでくださった方ありがとうございます。小林秀雄は「モオツァルト」の中で素敵なこともたくさん書いてるんですが、今回はあえてこういう取り上げ方をしました。私はあんまり何かをネガティブな視点から語るのは好きではないんですが、この「モオツァルト」に関してはいつか書こうと思っていました。私はこの書評を通して、モーツァルトが天才じゃなかった!とか、小林秀雄はダメなやつだ!と言いたかったわけではありません。私はこれを書くことによって、「誰かを神格化」する危険性について書きたかったんです。モーツァルトを神格化して「天才だからできたんだよ〜」と片付けてしまえば、彼の作曲プロセスは雲に隠れてしまいます。また、突飛なエピソードを証拠に人を天才だと持ち上げていけば、行き着く先はさ◯らご◯ちさんであることは明白です。

現代のSNS社会では自分をプロデュースし、飾り立てることが容易です。簡単に「神」が現れる世の中になりました。小林秀雄もビックリです。(今生きていたら全然違うモーツァルト評を書いたかもしれませんね)しかしその中だからこそ、モーツァルトも踏んでいたはずの記録に残らないプロセスや地道な経験を一層大事にしたいと思うのです。

自分を飾ることを知らない天才が、隠れていかないように。

おまけ

坂口安吾の「教祖の文学ー小林秀雄論ー」はなかなかいいですよ!実際に知り合いだった二人の面白エピソードも載ってます。

ABOUTこの記事をかいた人

埼玉県出身、東京- NYを経て、今はミシガン州立大学で音楽学部の博士課程に在籍中。 専攻はピアノ。 よく読むジャンル→ミステリー、ファンタジー、エッセイ、恋愛もの、歴史物、伝記、ノンフィクション、児童書 アメリカ中西部でピアノを弾いたり音楽について学んだり書いたり教えたりしています。 本を読んで現実逃避して寒さに耐えています。