初めてのかたははじめまして、そうでない方はこんにちは。環です。
私事ですがこの春から、わたしよりも長生きである少し古いアパートに住み始めました。
家さがしをする際に、今の家を見たときにふと、思い浮かべたのが三浦しをんさんの『木暮荘物語』です。
アパート 木暮荘を取り巻く、個性的な人たち
物語の舞台は小田急線 世田谷代田(せたがやだいた)駅から徒歩5分、築ウン十年、全六室のぼろアパート 木暮荘(こぐれそう)。
壁は薄く、生活音は筒抜け。お風呂はなく、後から取り付けたようなシャワースペースのみ。
昭和の名残がぷんぷんと漂うおんぼろアパートです。
アパートに住むのは大家である木暮(こぐれ)、花屋の店員 繭、女子大生の光子、サラリーマンの神崎の4人。
この住人たちを中心に、木暮荘を取り巻く人々がオムニバス形式で綴られています。
例えば大家の木暮は人生の終末を意識しはじめた頃、唐突にどうしようもなく女性を求めるようになります。
妻はいるが、改まって口にはできない、かといって新しく女性と出会えるはずもない、一体どうすればよいのだろう…と悶々と悩み続ける日々を送ります。
また、2階に暮らすのは花屋の店員である繭。
地味で男性とは縁遠い女性ですが、少し前から恋人もでき、幸せな日々を送っていました。
しかしある日、3年前に突然消えた元恋人が転がり込んできて、奇妙な3人暮らしを始めることになります。
ここまで語ると、ほのぼのとした日常短編集という感じですが、この物語のテーマはズバリ、“生”と“性”。
実は、この物語を初めて読んだのはまだ人生経験が今と比べて浅い十代の頃。
数年前にふと、読んでいたことを忘れて再び手にとったときに、この物語に込められたメッセージをほんの少し、受け取れることができたような気がします。
心も身体も、繋がりたい
木暮荘をめぐる人たち、それぞれの日常の中に垣間見えるのは、“人間らしさ”。
ゆるゆるとした日々の中では、どの短編も幾度となくデリケートな男女の繋がりが直接的に書き記されています。
例えばある話では、アパートに住むサラリーマンが、階下に暮らす自由奔放な女子大生の生活をのぞき見しています。
のぞきたい、という欲求を抑えきれない男と、複数人の男と関係を持つ女子大生。
このふたりの関係は奇妙でしかないのに、不思議と微笑ましくて、愛おしい。
ひとりではなく、誰かとの繋がりを求めながら生きているのは彼らだけではありません。
きっと多くの人は心と心の、時に身体と身体の繋がりを欲しながらも、それをひた隠して生きている。
「なんだ、この人は?!」と感じていた人たちをいつしか愛おしく思う、そんな血の通った物語です。
アパートに住む個性的な人、と書いていますが、普通なんて勝手に第三者が決めているもの。
普通や個性的という言葉は便利でつい使ってしまいがちなのですが、人は皆それぞれ違っていて当たり前、だから繋がりだって求めるのだと読後の今は思います。
この物語は恋愛小説とカテゴライズはできませんが、さらりと描かれた男女関係はどこか切なくて目が離せません。
わたしが好きだなあ、と感じた一節がこちら。
恋のなれそめを知人に話したとある一場面を紹介します。
「そのエピソードのどこをどうしたら、恋が生まれるわけ」
説明などできるはずがない。
気づいたら心が恋という字そのものになっていた。
文学と読み物の狭間
巻末には、「小暮荘に寄せられた声」として、小泉今日子さん(女優)、角田光代さん(作家)、金原瑞人さん(翻訳家・法政大学教授)からの言葉が添えられています。
その中のおひとり、金原瑞人さんの以下の一文には、グッときました。
現在、小説は「文学」と「読み物」に区分されている。簡単にいうと、芥川賞は文学で直木賞は読み物。橋本治によれば「『文学』とは『人はいかに生くべきか』をまじめに考えるものなんですよ。(中略)でも、『人はいかに生くべきか』を、文芸誌の外の小説誌でやっちゃいけない理由はない」。
そんなスタンスで書き続けている作家のひとりが三浦しをん。彼女の小説は、文学と呼ぶにはあまりに面白くて、読み物と呼ぶにはあまりに深く迫ってくる。
直木賞作家である三浦しをんさんが描く物語にこめられたエンタメ性はわたしが語るまでもないことですが、そこには“読み物”にとどまらない緻密で繊細な魅力が込められているのだと思います。
木暮荘をとりまく人たちは、立派な人はいません。
悩みながら生きていて、つまずきながら、人間ならではの欲望に振り回されながらも、まっすぐ一生懸命に生きています。
彼らが生きる姿はどこかおかしくもあるけれど、読後にはあたたかなエネルギーがわいてくるような不思議な魅力に満ちた物語です。